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日々雑感(ミステリ感想中心)

悪意(東野圭吾/講談社)

96.悪意(東野圭吾講談社

総評:★★★★☆

オススメ:ホワイダニットをひたすら追いかけるミステリ。小説でしかできない体験を味わえます。

 

あらすじ(引用)

人はなぜ人を殺すのか。 
東野文学の最高峰。 
人気作家が仕事場で殺された。第一発見者は、その妻と昔からの友人だった。 
逮捕された犯人が決して語らない「動機」とはなんなのか。 
超一級のホワイダニット。 
加賀恭一郎シリーズ 

 

いや、素直に面白かった。捻くれ読者なので、東野圭吾みたいなドメジャーオブメジャー作家の作品を褒めるのがすごく抵抗あるんだけど笑、でもこれは面白かった。

 

ある種飛び道具的なトリックなのに、きちんと地に足のついたミステリに収めてくるのが東野圭吾。あとやっぱ文章めちゃくちゃ読みやすいわ。すごい。

ネタ自体はシンプルなんだけども、描写力がモノを言う作品。「人物を描く」とはこういうことなんだなと。

あとは言うまでもなく構成の妙が光る。(余計なことを書くとネタが割れそうなので、細かいことはネタバレあり感想で語らせてもらうんだけど...)

タイトルも秀逸だなぁ。これしかないね。

 

なお、本作は加賀恭一郎シリーズ第3作にあたるが、いきなりここから読んでも多分大丈夫(1と2は自分も読んでないので分からないけど、少なくとも本作の話は単品で理解できる)。

 

 

 


※以下ネタバレあり感想

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


物語はそれを書き留めた瞬間、書き手の主観によって事実が歪められる。

「歴史」も同じ、語り手の主観性の問題を孕んでいるが、まさにその「書き手の歪み」を取り上げたのが本作。メタミステリといって差し支えないように思う(当方の大好きな奴です)。

 

手記自体にミスリーディングが仕掛けられているというのは、言うなれば「信用できない語り手」パターンでは散々手垢のついた手法なのだが、本作が凡作に止まらないのはやはり、人物描写の巧みさ、操り方の美しさだと思う。

ミステリに限らずだが、小説における人物描写とは「外見の描写」ではない。「所作の描写」だ。椅子に座るとき、ふんぞりかえって座るのか、端にちんまりと腰掛けるのか、そもそも座らないのか。初対面で握手をするのか、ハグするのか、それとも目線も合わせないのか。読者はこうした「所作の積み重ね」を読んでその人物像を推し量る。ここがうまい。

 

野々口の手記の絶妙な点(特に第一章)は、日高邦彦を直接的に貶めずに(あいつは性格が悪い等の直裁的な表現は無しに)、「猫殺し」「禁猟区の裁判騒ぎ」の二点で、読み手に「日高邦彦ならば盗作・脅迫をしかねない人物だ」という先入観を植え付けるところだ。

よくある「信用できない語り手」パターンのミステリは、「重要な情報を隠す」が多いのに対して、野々口の手記はその逆、情報を盛ることで「人物像」というミスリードを誘うことに成功している。

こうして書くと単純だけど、いやこれ、すごい文章力がいる構成ですよ。

特に上手いと思ったのは過去の章その二の、野々村と日高の過去を知る人物へのインタビュー。彼らは野々口の手記と違って、意図的に何かを隠したり嘘をつく必要はないんだけど、それぞれの立場から見えた「真実」を語るので、日高も野々口も人物像がなかなか見えないんだよね。警察の取り調べって難しいんだろうなぁと思わせる章。

野々口は綿密な策略のもとであの手記を書いたけど、我々も普段から無意識に「事実を歪めて」記録したり語ったりしているわけで、そこに「悪意」が潜んでるんだなと思ったりしました。ミステリというか文学作品ですよこれは。

 

まぁただ、実際にこんなトンデモトリックが使われた場合には、日高の周辺を洗うことで人物像のミスリードは解けそうな気もするけどね。編集の人がゴーストライターに気づかないなんてことあるかなぁ。

 

最後に、これドラマ化されてるらしいんだけどセンスを疑いますね。「小説」という体裁を取ってるからこそのトリックなのになぁ。

手記や供述からしか、日高・野々口の姿が推し量れないからこそ、最後のどんでん返しで人物像がひっくり返る素晴らしさ(今まで見えていたものが全く違った意味を持つ驚き)があるのに、映像化したら台無しだと思うんだけど、どうやって作ったのかな。

 

ラストシーンを加賀恭一郎による解明で締めるのもよい。しかもほぼ聞いている野々口の描写がない。野々口が「本当は」どんな人物だったのか、真の動機はなんだったのか、それは誰にも分からないままなのだ。