ロートレック荘事件 (新潮文庫/筒井康隆)
31.ロートレック荘事件 (新潮文庫/筒井康隆)
総評:★★★☆☆
オススメ:トリックはまず見抜けない。ネタバレされる前に読みましょう。
あらすじ(引用)
夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?動機は?推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。
「絶対に犯人を見抜けない」系のミステリとして有名なので図書館で借りてきた。
結論から言うと、ミステリ初心者にも読みやすく、賛否両論あるにしても一度読んで損はない作品だと思う。トリック自体はなかなか凝っていて、自分の読んだ限りでは類似作品は1つしか知らないが(ネタバレ感想にて反転で言及)、その作品よりも使い方は上手いしフェアなのではないか。
ただし、ラストが色んな意味で冗長。うーん。出版時期から考えてもこうせざるを得なかったのかもしれないけど......こう...ビシッと締めて欲しかったような...
それにしても筒井康隆はほんっと引き出しの広い作家だと感じた。短編しか読んだことなかったけど、長編ミステリもさらっと書けちゃうんだから凄い。
あとネタバレではないので書くけど、珍しいタイプの身体障碍者が登場するのも特徴。「ロートレック 写真」とかでググってみて欲しいが、下半身の成長が止まってしまったという奇病を患った人物がいて、彼を中心に話が展開する。
参考:アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック - Wikipedia
一般的に、身体障碍をネタにエンターテイメントを描くというのはエチケットに反すると言う暗黙の了解がある。というか、身体的特徴をネタに笑ったりするのはご法度というか。しかしその点、筒井康隆は「身体障碍者を利用したトリックを遠慮することこそ、身体障碍者への差別である」という考えのもと、本作品を書いた。ミステリの話からは逸れるが個人的には深く感銘を受けた。
別に私は人権派とかでもないんだけど、なんというか、筒井のポリシーがミステリでも発揮されていることが凄いなぁという意味で。この辺はネタバレ感想で詳しく書きます。
まぁあんまり固いこと考えずに読めば良いと思うんだけど、佐野洋さんの解説がなかなか面白かったので、機会があれば是非文庫版を手にとって欲しいものである。
※ 以下、ネタバレ感想
いわゆる語り手を隠すタイプの叙述トリックミステリ。
正直、例の部屋の見取り図が出てきたところで「浜口と重樹って別人だろ」って気付いたよ。「浜口重樹」だけフルネームで他の人の表記と違いすぎるから。で、工藤はミスリードだな〜ってところまでは考えたんだけど、まさかあんな巧妙に語り手を隠してるとは思わなかった。うーん。
ネタバレなしの方にもちらっと書いたけど、この「ある登場人物をわざと描写しないことで、あたかもいないように見せかける」タイプの叙述トリックは、(以下、反転で某国内作品のタイトル)『アリス・ミラー城殺人事件』(ここまで)を思い出したけど、こっちよりはスマートかな。
ただ、ラストの自供がものすごーくダラダラしてて飽きた。綾辻行人の某有名作品を思い出してしまった。あれもあの一行で終わりにしとけば良かったのにーって思ったからなぁ。
この作品が発表されたときはまだ叙述トリックが一般的でなかったから、自供による解説が必要だったんだろうけど、今読むとやっぱり冗長。いちいち何ページの何々はこういうミスリードでしたって言わなくても、第十六章で終わるか、あっても十七章を飛ばして十八章行った方が良かった気がする。
十六章の最後、なかなか良い終わり方なんだよね...長いけど引用させてもらいます(太字はブログ主による)。
おれを見つめていた全員が声にならない息を、あっ、と呑んだ。彼らは一様に、今まで何かに覆われていた目が本来の視力を取り戻したかのような表情をした。
「嘘だ。重樹がやったんじゃない」浜口修が悲痛にそう叫び、おれを皆から守ろうとするかのように抱き上げて、渡辺警部になかば背を向けた。「たとえ重樹がやったんだとしても、それは重樹がやったんじゃない。ぼくがやったんだ。ぼくがやったんだ」
この部分に物語の核心が目一杯詰め込まれている。
①画家の浜口=浜口修≠語り手=重樹=奇病の持ち主、という叙述トリックがあったこと
②身体障碍者にも関わらず絵の才能があったために画伯として散々場の中心を支配していたのは実は重樹ではなかったこと。むしろ、見えない人間として扱われていたこと。
③周りからの好意を一身に集めていたのは健常者の浜口修であり、重樹はそれを危惧していたこと(修に捨てられると思っていたこと)。
④叙述トリックによって混同されるくらい、重樹と修は常に一緒に行動していたこと。
⑤冒頭の修が、重樹に誓うシーンとの比較。p.6〜7を読み返して欲しい。
いや、本当にここ上手いんだよね。ちやほやされていたのは重樹ではなかった。むしろ重樹の目を通した修だった。だからこそ読者は、修が自分を捨ててしまうかもしれないと思って犯行に走った重樹の気持ちがわかる。
そもそもこの手の「犯人をわざと記述しないことで隠す」叙述トリックは、読者しか引っ掛からないわけで、作中内の登場人物にとっては犯人は明白になるという弱点がある。
というか、捜査がそもそも難航しないはずなんだよね。上で挙げた某作品もその辺が特に非合理的だった(作中内登場人物はすぐに犯人を特定できるのに、全員殺されるまで放置してしまっている)。
でも、身体障碍者であり見えない人間かのように扱われていた重樹ならば、場にいる人々にとって疑われにくいのも頷けるわけで。
身体障碍者を差別するな、という風潮があっても私たちは無意識のうちに彼らを特別扱いしてしまう。それは、「身体障碍者の重樹には犯行など無理」という思い込みであったり、また、「身体障碍者を丁重に扱おうとするあまりかえって腫れ者扱いし、見えないように扱う」ことに端的に表れていて、それがこの作品の叙述トリックとうまく噛み合っている。…と、思う。
しかも、結局才能があって周りの女性(正確にはその親たち)からあれだけちやほやされてたのが健常者だった、という真実も個人的にはぐさっときたよね。むしろ重樹は、そんな浜口を失うのを恐れて殺人に走ってしまう。身体障碍者をむやみやたらに美しく描きたがるエンターテインメントを批判して、ありのままの身体障碍者がもつ苦悩を描いているように感じた。深読みしすぎかね…でも、いわゆる身体障碍者作品としては異色ながら確固たる信念に基づいた作品で、非常に良い出来だったと思う。
うーん、筒井康隆恐るべし。
長々した自供が蛇足だったのと、夜這いシーンだけ語り手が入れ替わることがややアンフェアだったこと以外、よくできた作品だったと思う。
個人的に、オチもなかなか悲壮で良かった。殺してしまった後で、最愛の人と相思相愛でありこんな犯行に及ばなければ別の未来があったことを知ってしまうというエンディング。
やっぱり筒井康隆はエンターテイナーであると同時に文学者だなぁ。